前回はウェブサービスの導入と小さな成功を説明しましたが、今回はその続きと、大きな政局がどのようにベンダーの行動を促していくのかを説明したいと思います。

成功と挫折は予想外の展開から

成功を収めたウェブサービスのシステム拡張を行うため、顧客側で予算も拡大要求する事になりました。ところが、ここで問題になるのが昨年の安値受注です。

結果的に安値受注になってしまったのですが、顧客としては格安で最大の効果を出したと勘違いしていますから、拡大要求と言っても5倍程度だったりします。しかし、全然足りません。
少なくとも開発費として数千万は無いと安心安全なものは作れません。この年からは部署としても真剣に取り組む事になり先輩も参加してもらい、予算取りのために必死の交渉を続けました。

その結果、サーバ含めて昨年よりは多く準備してもらえることになりました。
相変わらずの金欠プロジェクトです。それでも今年は会社の体制もだいぶ強化され、準備万端で望みました。いえ、望んだつもりでした。

 

動かないウェブサービス。その理由はなんと広告?

昨年よりも倍増したサーバやネットワーク機器で準備したつもりでしたが、毎年期間限定公開のサービスを再公開後いきなりビジー状態に陥りました。全員大混乱です。

「なぜだ!?」

答えはお客様からの電話でわかります。

「ヤフーにバナー広告貼っておいたから。予算余ったので。」

すぐにヤフーを見ると、トップページにデカデカと貼ってありました。しかも二箇所も。
いわゆるヤフートピックスによるヤフー砲に等しい効果があるわけですが、それが瞬間最大風速ではなく、そこから広告掲載期間の最低1周間は続くことになるということで、緊急対策を行うことになりました。

本来はこういう広告を貼る場合は、事前に協議しておかないとシステムダウンしてしまうため、サーバリソースも含めて調整するのが広告代理店の仕事だったりするのですけれども、この時代はまだITに対する理解が乏しく新聞広告のような感覚で出向されてしまったようでした。

 

SEの機転と愚直なオペレーション

ここからがまさに地獄です。緊急対策として、JVMの手動ガベージコレクションという荒業を行いました。

利用している言語のJAVAはバーチャルメモリを一時的に開放するガベージコレクションという機能を自動的に動かします。しかし、それすらも動かせないほどメモリが逼迫していたため、SEが即席でメモリ解放ページを作成し、ボタンを押させることで強制的にメモリ解放を行い、早い者勝ちで利用できるようにしました。
昼間のアクセスが多いことはわかっていたので、一般職の女性にマニュアルを作り、即席のオペレータになってもらい提示時間内はメモリ解放作業を行ってもらいました。

 

まだまだ続く障害。そして、ついに増設へ

1週間経って広告掲載が終わり嵐はすぎるだろうと思っていたのですが、ビジー状態は続きます。広告効果が継続しているマーケティング的には非常に良い状態が続くのですが、システム的には残念な状態が続きました。
そのため、緊急的にデータセンター側と協議し、サーバの購入費用などは一旦別途の扱いとして増設するように話をつけました。ロードバランサー、SSLアクセラレータ、サーバ10台を増設する事になります。かかった費用は数千万円です。

「誰がこれを負担するのか?」というと、当然顧客だろうという話になりますが、顧客にとっては寝耳に水です。
予算もない中で決着が付きませんし、さらに、全国の顧客支店で本件の問い合わせ対応でかかった残業費用の換算額を持ち出し、数億円の損害賠償請求をチラつかせてきました。

そのような駆け引きの中、最終的には値段を下げ、残予算対応する形で決着が付いたと思います。

 

最後の罠。チェック漏れで動かない

サーバなどがすべて集まり、増設のタイミングになりました。嵐のような日でしたが、ずっと泊まり込みでメンバー全員が詰めていました。特にやれることもなくただ時間がすぎていきます。
しばらくすると、データセンターから作業終了の連絡が来ました。

いざ、確認すると動いていません。そのため、急いで連絡したものの、彼らは夜通しの作業からかきちんとした稼働テストもせずに引き上げてしまっていました。

日曜日だったので、データセンターの技術者にも営業にも連絡がつきません。携帯電話にも出ないため大混乱に陥りました。その結果、データセンター会社の社長の家にまで電話をしてなんとか連絡が取れないか確認しました。
実は、この社長は親会社からの天下りで来ているだけの腰掛けだったので何も知らなかったのですが、我々の緊迫感だけは伝わったようです。結果的に、現場の人間が起きてくるまで事が一切進みませんでした。
その間、【メンテナンス中です】という画面を出し、顧客も我々も限界の中、耐えに耐えていました。
そして、それがついに開放されるときが訪れました。

全員が安堵した瞬間でもあり、私の失態(何故かこういう扱いになっってました)の責任を取らされる瞬間でもありました。

 

会社を辞めるか、次の戦場に赴くのか

提示されたオプションは二つで、転職サイトなどを通じて転職し会社を辞めるか、部署を移動するかの二択になりました。

私は後者を選択したのですが、今思うとここで会社をやめて独立していたら、今頃シリアルアントレプレナーになっていたかもしれないな、なんて思いました。

彼は脅しの意味で言ったのでしょうけれども、本当は事実上の解雇(自主退社を促す)なんて出来ないのですが、それはアウトです。
彼自身も会社の経費の使いすぎと朝の遅刻を更に上の上司に責め立てられ、地方に左遷させられています。このように部下を育てる気がない上司は、すぐに部下に責任転嫁しますし、問題点を教えることもしません。
結果だけしか見ないので、あの会社にはあまり似合わないと思います。

 

 

次の戦場は総務省と経済産業省の研究開発

短い間ですが、研究開発の受注という特殊な環境にいました。これは、通常の注文から外れた少し未来をコンサルティングするような請負型研究案件です。

これを受注することで、その次のシステム構築の仕様を埋め込めるわけですが、この時期、電子政府案件では過去の二の舞い、特に寡占状況を芳しくないと思っていた政治的圧力から、研究開発と設計工程と製造工程の調達は別ベンダーでというお達しが出そうになりました。
現実には設計と製造は分離できないので、研究開発を受注したベンダーは開発工程には入札できないという取り決めになりました。

 

エンタープライズ・アーキテクチャーの国内初受注

この時に受注した案件は官房業務という総務系の業務システムをエンタープライズ・アーキテクチャー(=EA)に刷新するということでした。80年代後半に米IBMのザックマン博士が考案した11に分けられるザックマンフレームワークに準拠したアーキテクチャになります。


このフレームワークに入れることによって、エンタープライズ案件の設計工程におけるムダムリムラを取り除こうとする試みでした。
まず、この案件を総務省から少額で受注し、その後、それを引き継いだ経済産業省にて規模が拡大し受注することになります。ここでも、マルチベンダーでの受注ということで、各コンサルティング企業と水面下のギリギリの交渉をおこなっていました。

また、CIO補佐官との調整なども必要で、そういった政治的な駆け引きみたいなものをここで学びました。

この時、私も給与グレードが上がることになり、社内で論文を発表する必要があり、誰もやっていないし知らないので突っ込みようがないEAを選択し発表しました。
通常は部署の方だけが参加するのですが、EAと言うものを知らない人たちが国内の官公庁案件としては初の受注ということで、かなりの人数が大会議室に集まり聴講していきました。

 

またも案件を引き継ぎ、郵政民営化にチャレンジ

EAの実績からか、その後、郵政民営化の流れにそって郵便事業を担当することになりました。N社営業が公共部隊に合流し、より効率的な営業活動を行なえというお達しが来ます。
しかし、営業スタイルの違いに戸惑いつつ、我々の流儀も入れていくことになりました。ただ、資料作りをN社営業の本部長が要求してきます。

本当は私の同期の幹部候補にお願いしたかったそうですが、面倒くさいということで、当時まだ暇だった私がやっていました。私は決して出世するようなタイプではなかったのですが、かなり上の方からは可愛がっていただき、経営資料などは置いておくから読んでおきなさいなど言われていました。
他の同期は、そういう話も意を介さず、何もしません。実際の処、優秀な後輩たちは資料の盗み読み的なことはちゃんとやっていました。そうやって、将来の自分をイメージしながら、毎日を生きていたのだと思います。

 

関係ができていないため、関係の構築からスタート

当時、郵政三事業において、かんぽ生命とゆうちょ銀行は大型受注できていましたのでそのまま頑張ればよかったのですが、郵便だけは郵便区分機以外は受注できていませんでした。
また、N社の牙城でもあり、なかなか攻めきれません。

ところが、郵政民営化で神風が吹きます。郵政三事業のうち赤字事業である郵便事業の経営を抜本的に改革するためデジタル化を促進することになります。
既存システムのオープン化のみならず、経営分析システムの新規導入、決済周りのシステムの統合が挙げられました。同様に未だに使われていますが、窓口端末、ハンディーターミナル、それらを統合管理するための郵便局サーバなど合計で10万台を超えるデジタルデバイスの導入が掲げられました。

そこで、私たちは、はじめに郵便システムの更改という案件にチャレンジすることにしました。顧客と打ち合わせのアポを取り伺うと、仕様招請を行う話をされました。
その後、間隔を開けず、一生懸命に自社のハードやソフトウェア、強みなどを膝詰めでプレゼンしていきます。熱意は通じたのか、はたまた戦略なのか、既存ベンダーの寡占状況に対する不満が吹き出していたのです。そのためこれはいけると踏みましたので、プレSEフィーを数千万持ち出し顧客の求める性能検証などを行うことになりました。

 

まとめ

栄光と挫折は常に繰り返されます。私の場合はあまり安定せず新規案件、新規部署で新規チャレンジばかりやってきたので、非常に大変だったなという記憶ばかりです。
結局は、自分が頑張っても組織の評価になればいいと思える人がこの会社で生き残れる方だと思います。

次回は、途中で終わった郵便システムがどのような展開を迎えるのか、そして、私がなぜこの会社をやめることになったのか真相に迫っていきます。