転職あるいは退職する際に誓約書という見慣れない書類にサインを要求されることがあるかもしれません。普通の人は転職や退職そのものがそうそう経験するものではないので、「誓約書とは一体何なのか?」、「サインしなければどうなるのか?」と疑問に思うこともあるのではないかと思います。
誓約書そのものは研究職に限ったものではありませんが、会社で行った研究内容が競合他社にとっても重要な意味を持つ可能性があると思われるという意味では、他の職種よりは誓約書へのサインを要求されることが多くなるのではないでしょうか?
また、前職で特許を取得しているのに、それで会社が大もうけをしたときに利益の一部をもらう権利の有無というのも退職時に気になるという研究者も居られるのではないかと思います

退職時に会社からサインを要求される誓約書というのは、「退職時誓約書」や「秘密保持誓約書」などの名称で呼ばれることのある書類であり、就業時に知り得た営業上の秘密や顧客情報、あるいは、未公開の研究成果が流出するのを防ぐために提出させる契約書の一種ですが、一定期間競合企業に転職したり情報を社外に持ち出すことを禁止するものです。

研究職の場合、就業中に得られたデータや報告書は会社に提出することになりますし、そのもととなるパソコン内のファイルも提出するか廃棄することになりますが、就業中に立てた研究方針や得られたノウハウというのは頭の中に残っています。
さすがに、細かい数値までは記憶しているということは無いと思いますが、頭の中に残っている研究方針やノウハウは消せるものではありませんし、転職先の会社で頭の中に残っている情報によって研究が大きく進展してしまうというのは会社にとって大きな損失ということになる可能性もあり、営業先や会社の経営状態などに対する守秘義務とは少し異なった部分があります。

会社にしてみれば、誓約書というのは退職者の秘密漏洩によって会社が不利益を被ることが無いようにするための防御策のようなものですが、

  • 「サインをしてしまっては後で大変なことにならないだろうか?」
  • 「競合会社に転職できないのは困る?!」
  • 「秘密はいつまで守らなければならないのか?」

など疑問に思うことはたくさんあるかと思いますし、

  • 「誓約書そのものがどこまで有効なものなのか?」
  • 「サインをしなければどうなるのか?」

というのも分からない点かと思います。

結論を申し上げると、労働者に不利益が発生するような誓約書には法的な効力はなく、会社と退職者の双方が納得できるような内容でなければ会社がサインを強要できるものではありません。
言い換えるならば、常識的な範囲を逸脱しているような誓約書にはサインをすることなく転職することができるということになります。

また、研究職の場合、就業中に行った発明によって出願された特許や登録されている特許に発明者として名前が入っている可能性は他の職種よりも多く、会社に実施権のある特許の発明者に名前が入っている研究者は退職する際に権利関係や対価について注意する必要もあります。

そうですよね!誓約書が法的に有効ということになるとヘッドハンティングによって競合企業に転職するなんてことができないということになってしまいますし、研究職ならば自分の専門性を活かした転職先を探せば競合企業に決まってしまう可能性は高いと思います
誓約書にサインするのを拒絶して退職することは不可能ではないといっても、辞める会社を相手に揉めるのは鬱陶しい部分もありますし、可能であれば、誓約書を要求する会社と十分に話し合って双方が納得できる形で合意を得たいものです。
しかしながら、どうしても折り合いが見つからないときには弁護士などの法律の専門家に相談するというのもありますし、誓約書へのサインを拒絶して退職するというのは最後の手段としておきたいところです
形だけの円満退職かもしれませんが、弁護士が関係するような裁判沙汰というのは好ましいとは言えませんね。
そもそも、「誓約書というのはどういったものなのか?」、「法的拘束力というのはどうなっているのか?」、「誓約書にサインをしながら約束を破ったらどうなるのか?」というのを十分に把握してからサインをするのかどうかを決めた方が良さそうです

 

退職時に提出する誓約書の法的拘束力とは?サインするとどうなるのか?

誓約書という名称は着いていますが会社と退職者の間で交わされる契約書ですので、サインをした時点で契約が成立しており、違反した場合には誓約書に記載されているペナルティを実行する権利が会社側に発生することになります。

誓約書には、会社の非公開情報を退職者の転職先に知られないようにするために秘匿すべき情報が指定されていたり、一定期間競合企業に転職しないような内容が記載されているのが一般的です。
以下に、誓約書によく記載される秘匿すべき情報や競合企業に転職することを制限する文言に関する一般的によく見られる内容を示しておきます。
後者の競合企業に転職しないという誓約内容は労働法にも定められている「競業避止義務」という項目に合わせて記載されているものです。

一般的な秘匿すべき情報

  • 製品や製造に関するノウハウや販売計画、製造原価などに関する情報
  • 他社との業務提携に関する情報
  • 財務、人事等に関する情報
  • 上司または会社から秘密情報として指定された情報

競業避止義務に関する一般的な記載内容

  • 競合企業に就職したり役員に就任しない
  • 競合企業の提携先企業に就職したり役員にしない
  • 競合関係になるような事業を開業または設立しない

研究職という立場に限定すると、「製品や製造に関するノウハウや販売計画、製造原価などに関する情報」や「上司または会社から秘密情報として指定された情報」というのが主な対象となってくるのかと思いますが、受託製造している場合の受託先も守秘義務に該当する可能性があります。
これらの情報に関しては報告書のように印刷物となっているものやファイルも会社に返却することになりますし、返却不可能な頭の中にある情報に関しては競業避止義務という形で他社に漏れないようにするというわけです。

会社に不満や欺瞞を抱いているから退職するわけですから、そんな会社と後から揉めるようなことは避けたいので「まぁ、良いか・・・」と思うかもしれませんが、安易に誓約書にサインすると誓約書に違反した行為が発覚した際に会社から損害賠償請求や訴訟を起こされる可能性があります。
といえども、誓約書にサインしてから本格的な転職活動をして競合企業に転職することになってしまうケースというのは研究職ではよくある話で、競合他社でなかったはずの転職先がその研究職を採用したことによって競合企業になってしまうということも無いわけではありません。
そんな時に、誓約書にサインしてしまっていることが「大丈夫なのだろうか?」と気にかかるということもあるかもしれません。

会社にしてみれば、退職するものが情報を漏らして自社が不利になるようなことは避けたいから誓約書にサインを要求するというわけですか?ヘッドハンティングなどで競合企業に転職することが内定している場合には困りますよね?
会社にとって重要な研究に携わっているのであれば退職したいという研究者が働きやすい環境整備をするなり改善するなりして引き留めるようとするわけですから、退職届を受理した時点で代替え可能と判断されているということになります。
言い換えるならば、普通は「退職後〇〇年間」は競合企業に転職しないように記載されますが、代わりに研究できる人が社内にいるか再雇用することが容易なレベルであるという判断ですから、会社が退職者が競合企業に転職することに強くこだわることは無いのかもしれません。
また、競合企業に転職することが決まっているときには守秘義務を強化する程度にとどまることも考えられますので、会社の担当者と話し合うことが重要だと思います
転職先が後から競合企業に決まったときには誓約書に違反して問題が起こることになるわけですから、転職先を探すときに定められた期間は転職先候補から競合企業を外さなければならないということでしょうか?
そうなると転職先を探すのが大変ですし、研究者には専門とする学問領域があって競合他社に転職するケースは他の職種の方よりも可能性が高いと考えられます。
というわけで、重要になってくるのが誓約書の持つ法的な拘束力というわけです。

 

誓約書に記載されている内容の法的な背景は?

会社に所属している間に得られた情報に関する報告書などの印刷物やファイルを返却・廃棄することは拒否する理由も無いと思いますが、競業避止義務と言われる競合企業への転職を妨げる内容は問題が起こりやすい部分です。
細かいデータはともかく就業中に行った研究の経過やノウハウは頭の中に合って消えるものではありませんので、誓約書を要求する会社にとっての気がかりは転職先でライバル企業の研究が画期的に進展することというわけです。

さて、競業避止義務というのは労働法において「従業員の退職後に競業他社への就職を禁ずる」ことを定めたもので、誓約書や就業規則にそれを盛り込むことも認められています。
競業禁止義務の有効性については、地域、あるいは、制限する代わりに会社が何をしてくれるのかなどの条件も判断基準の一つになるようですが、競合企業への就職を制限される期間が最も大きな判断基準とされているようです。
簡単に言えば、誓約書に記載されている競合企業に転職できない期間を示す「〇〇年間」という期間が理不尽であるのか否かというのが最も重要ということです。

研究領域にもよると思いますが、科学技術の進歩が著しい今の時代に5年も10年も競合企業に転職できないというのは明らかにおかしな話ですし、逆に、1年が適当なのか2年が適当なのかというのも難しいところです。

一方、日本国憲法では労働法の前に「職業選択の自由」が認められていますので、従業員が辞めることを妨害できるということはありませんし、退職後に会社がどのような職に就くかを制限できるものではないということもあり、競業避止義務に関わる損害賠償請求や訴訟の判決はケース・バイ・ケースというのが一般的です。

基本的な考え方としては、民法90条に「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は無効とする。」と定められており、簡単に言うならば、個人の職業選択の自由を極端に脅かすような競業避止義務は無効となりますので、常識の範囲内で労働者も納得できるような形にしなければならないということです。

 

誓約書にサインしたのに競合企業に転職したらどうなるのか?

誓約書にサインする段階で競合企業への転職が決まっている場合には会社に伝えて誓約書を変更してもらうことになるかと思いますが、誓約書にサインをして退職した後に競合企業への転職が決まったときには会社側に損害賠償を請求する権利が発生することになります。

当然、そんな損害賠償は払いたくありませんので裁判、すなわち、法的な判断を仰ぐということになりますが、競業避止義務を退職者に課した会社の行為が公序良俗に違反していると判断されれば民法で定められているという「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は無効とする。」によって誓約書に法的な権限が無くなるということになります。

言い換えるならば、

  • どれだけ重要な情報を持っているのか?
  • 持っている情報を秘匿する代わりに十分な対価が支払われているのか?
  • 競業避止義務が課される期間が妥当であるのかどうか?
  • 退職者が納得して誓約書にサインしているのかどうか?

などによって、公序良俗違反に該当するのかどうかを判断することになるというわけです。

実際には、情報を口外しない代わりにお金をもらっていない限り、滅多なことで損害賠償請求が成立するということはなさそうです。
そもそも、退職をあっさり認めるような研究者に対して会社が裁判を起こすかどうかというのも疑問です。
ただし、判例が無いというわけではなく、可能な限り転職先で前職で知り得た非公開情報は口外しないことをおススメします
非公開の情報は喋らないということですが、投稿論文や出願されている特許も公開されていれば問題ないということですか?
公開されている情報というのは誰でも見ることができますので問題ありませんが、公開されていない製造するためのノウハウなどは注意が必要です。
ただし、特許に関しては発明者の権利もありますので誓約書とは別の意味で確認しておくべきこともあります

 

就業中の出願特許や登録特許に対する退職後の発明者の権利は?

仕事をしている最中あるいは過去に見いだされた発明について特許権が発生した場合には職務発明として特許の実施権は会社に帰属し、職務発明に対して発明者に支払われる対価は不合理なものであってはならないというように特許法の第三十五条に定められています。

(職務発明)
第三十五条 使用者、法人、国又は地方公共団体(以下「使用者等」という。)は、従業者、法人の役員、国家公務員又は地方公務員(以下「従業者等」という。)がその性質上当該使用者等の業務範囲に属し、かつ、その発明をするに至つた行為がその使用者等における従業者等の現在又は過去の職務に属する発明(以下「職務発明」という。)について特許を受けたとき、又は職務発明について特許を受ける権利を承継した者がその発明について特許を受けたときは、その特許権について通常実施権を有する。
2 従業者等がした発明については、その発明が職務発明である場合を除き、あらかじめ、使用者等に特許を受ける権利を取得させ、使用者等に特許権を承継させ、又は使用者等のため仮専用実施権若しくは専用実施権を設定することを定めた契約、勤務規則その他の定めの条項は、無効とする。
3 従業者等がした職務発明については、契約、勤務規則その他の定めにおいてあらかじめ使用者等に特許を受ける権利を取得させることを定めたときは、その特許を受ける権利は、その発生した時から当該使用者等に帰属する。
4 従業者等は、契約、勤務規則その他の定めにより職務発明について使用者等に特許を受ける権利を取得させ、使用者等に特許権を承継させ、若しくは使用者等のため専用実施権を設定したとき、又は契約、勤務規則その他の定めにより職務発明について使用者等のため仮専用実施権を設定した場合において、第三十四条の二第二項の規定により専用実施権が設定されたものとみなされたときは、相当の金銭その他の経済上の利益(次項及び第七項において「相当の利益」という。)を受ける権利を有する。
5 契約、勤務規則その他の定めにおいて相当の利益について定める場合には、相当の利益の内容を決定するための基準の策定に際して使用者等と従業者等との間で行われる協議の状況、策定された当該基準の開示の状況、相当の利益の内容の決定について行われる従業者等からの意見の聴取の状況等を考慮して、その定めたところにより相当の利益を与えることが不合理であると認められるものであつてはならない。
6 経済産業大臣は、発明を奨励するため、産業構造審議会の意見を聴いて、前項の規定により考慮すべき状況等に関する事項について指針を定め、これを公表するものとする。
7 相当の利益についての定めがない場合又はその定めたところにより相当の利益を与えることが第五項の規定により不合理であると認められる場合には、第四項の規定により受けるべき相当の利益の内容は、その発明により使用者等が受けるべき利益の額、その発明に関連して使用者等が行う負担、貢献及び従業者等の処遇その他の事情を考慮して定めなければならない。

参照元:電子政府の総合窓口 e-GOV 特許法

基本的には就業規則や就職時の契約によって職務発明に関する規定が定められており、一昔前には、発明者が手にすることができる特許出願・登録に対する対価は「特許出願手当」や「特許登録手当」といった形の低額支給の場合が多く、特許を実施することによって企業が手に入れる利益に対してかなり低いものとなっていました。

しかしながら、2001年に青色発光ダイオードという発明について発明者である中村修二氏が特許権を実施している日亜化学工業を訴えた「404特許」という名称で話題になった事件をきっかけに、それまで曖昧であった「相当のに対価」について国の指針に基づいて所属する会社と従業員の間で取り決めることが特許法に定められ、多くの企業で発明報奨制度が見直されることになりました。

404特許に関する訴訟

中村修二氏が日亜化学工業に所属している際に登録された青色発光ダイオードの基礎となる基盤特許について、同氏が退職後に以下の二つの論点で争われた裁判です。

  1. 会社名れに従わずに研究を続行して完成した発明であるので職務発明ではない
  2. 特許権を実施して多額の利益を得た日亜化学工業から「相当の対価」が支払われていない

という二つの論点で争われました。
研究者の立場で言うと研究内容に理解を示さなかった日亜化学工業にも問題があるように思われますが、どのような形であれ就業中に見いだされた発明であるという職務発明に変わりはないということでした。
ただし、当時、社内規定に基づき特許出願に対して20,000円と登録に対して20,000円が支払われただけであるというのは特許法第35条に定められる「相当の対価」からかけ離れたものであり、特許権の実施によって日亜化学工業が得た利益の50%に相当する604億円が妥当であるという判決に至りました。

結果的には和解が成立し日亜化学工業から中村氏に支払われた金額は延滞金も含めたおよそ8億円で決着したそうですが、この事件をきっかけに、金額こそ異なるものの特許出願・登録が多く発生するいくつかの企業で類似した訴えが発生することになり、2015年には職務発明が会社に帰属ることと企業は発明者に対して相当の利益を与えることを義務化するように定められたというわけです。

参照元:ウィキペディア 404特許

研究者が所属する会社の仕事を通じて行った発明に関する特許は、実施する権利は会社にあるけれども、社はそれに見合う対価を支払う必要があるということですね
でも、実際のところ、その発明が会社にどれだけの利益をもたらすのかというのは退職時には分かりませんので、退職した後に利益を生み出した時のために、退職時に相当の対価について会社と協議しおく必要があるということかと思います。
404特許に関わる訴訟は会社に大きな利益をもたらした特許に対して退職した発明者に「相当の対価」が支払われていないということが認められた裁判ですので、逆に考えれば、在職中に自身の出願した特許に対する「相当の対価」の取り決めをしておくことによって裁判を起こす必要は無くなるというわけです
大したことのない特許に対して大騒ぎして契約書まで持ち出すというのは、なんだか恥ずかしい気もしませんか?
研究者は研究目的を把握していますので、企業が得られる利益予想までは無理にしても、研究成果が将来どんな商品につながりどの程度の社会貢献をするのかなどの情報によってある程度の有用性は分かると思います。
どんなに欲目で考えても「大した事はなさそう」という判断であれば、話をややこしくするよりは円滑に退職手続きを進めた方が良いのかもしれません。
予想に反して、退職後に大きな利益を会社にもたらした時には訴訟を起こす必要があるわけですが、その際に重要なポイントが職務発明に関してどのように定められているのかということになります。
退職後は就業規則を読み返すことができませんので、退職する前に職務発明に関する権利の帰属と発明者に対する対価が就業規則にどのように書かれているのかを確認しておくことをおススメします